唐沢俊一の2008年1月6日の日記の中にこんな記述があった。
『……ものを書いて食っている自分、というのにはまだ、
現実感覚がある。それを目指してきたからである。』
この後に
『だが、テレビだのラジオだの映画だのに出る自分というのは
出始めて十年くらいになるが、まだ“他人事”である。』
と続く。
さらにテレビに出て知名度が上がったというような自慢が書かれた後に
『テレビに出ずっぱりで本業をおろそかにした文化人の成れの果ての例は
いくつも目にしているから、恐ろしくもある。』
とも書いている。
笑わせようとしているのかしら?
『ものを書いて食っている自分』
というのは
『人様の書いた文章を頂戴して食っている自分』
の間違いだろう。
『テレビに出ずっぱりで本業をおろそかにした文化人の成れの果ての例は
いくつも目にしているから、恐ろしくもある。』
というのは
『テレビに出ずっぱりになるくらい知名度が上がったら、盗作行為をした上に被害者を悪質クレーマーであるかのように罵った件が掘り起こされてマスコミから袋叩きにされるから、恐ろしくもある。』
の間違いだな。
しかし、こういうことが書けるということは、一切自覚がないんだなぁ。その姿は『コンフィダント・絆』という三谷幸喜脚本・演出の芝居に登場するシェフネッケルという画家を彷彿とさせる。
ここに出てくるシェフネッケルは人の好い人間なんだが自分に画家としての才能がないのをまったく自覚しておらず、仲間であるゴーギャンゴッホ、スーラたちから才能がないと思われていることも気づいていない。そして、自分は仲間の中ではスーラに次いで二番目に才能があると思っていて、スーラやゴーギャンがその才能に激しく嫉妬するゴッホに対してダメ出しをした上に俺が教えてやるとまでのたまう。それが原因でゴッホに切れられ、仲間だと思っていたみんなが自分をどう思っていたのかを知らされるという哀しいお話だ。
まぁ、唐沢俊一の場合、周りにいる人間も似たり寄ったりであるようなので、そんな哀しい思いをすることもないんだろう。第一、人の好い人間じゃないし。
奇しくもシェフネッケルをWikipediaで調べると
『自身の業績よりも、ゴッホポール・セザンヌの作品について後から筆を入れた、又は贋作を制作したのではないかと疑われていることにより注目される。』
とある。『ゴッホポール・セザンヌ』の部分を『漫棚通信知泉』に変えればそのまま使えそうな文章になるじゃないか。